セピア色の山

若い頃登った山の思い出を記録しておきたいとこのページを立ち上げる。
何時の事だったかもう記憶が定かではないが、一枚の記念写真のようにセピア色に記憶に残っている出来事を記す。



大天井岳で穂高をバックに
大天井岳

身延線の最終電車で甲府まで行き、甲府で屋台のラーメンを食べる。駅の構内の隅に新聞紙を敷いて仮眠、2時頃のアルプス何号かの急行で穂高駅へ、そこからタクシーで中房温泉まで走る。
その日は大天井岳まで歩き町営大天荘へ泊まる
寝不足の身体で燕を越えて大天井まで歩くのは辛かったが、大天荘の夜を楽しみに歩いた。
 現在穂高町でペンションを経営している臼井さんが大天荘の小屋番をしていた頃の事、私は毎年のように季節を変えてこのルートを行った。
槍や穂高の眺めが素晴らしくとても気に入ったコースの一つだった。ここから西岳を通る槍へのコースは、迫力のある槍が少しずつ近付き最高のロケーションだ。それだけに人気もあり表銀座と言われる所以だろう。
大天荘の雰囲気も良かった。夕食後のミーティングが楽しかった。正月に大天荘での写真が年賀状と一緒に届くと、今年もまた大天に行こうという気になった。
大天荘で教えて貰った山の歌は採譜して今でも手元に残してある。


空木岳

Tさんと5月の連休に木曽駒から空木まで縦走した。私がばててしまい、宝剣を越えたあたりの登りからペースが落ち、予定よりだいぶ時間がかかってしまった。
そのうち雪が降り出した。雪だけだったらまだ良かったが、地面と空の境界がわからない、濃いガスに覆われてしまった。雪と霧の中をしばらく歩くと空木と思われるピークに着いた。しかし、間違いなく空木岳の山頂だという自信はなかった。
真っ直ぐ進むべきか左へ折れるべきか、少しだけでも視界が利くようになってくれればと思い、ちょっとの間立ち止まっていた。が、寒くて待てなかった。
表が出たら真っ直ぐ、裏だったら左と決め100円玉を上に投げた。裏が出たので左へ折れるコースを取った。もしルートを間違えると下山が一日遅れてしまう。
歩き始めると間もなく目の前に避難小屋が現れた。
土間に雪が吹き込んだ小屋に荷物を置き、雪を浮かべたコークハイを吐くほど飲んだ。いつ寝たか、どう寝たかの記憶はない。


鳳凰三山

M君と残雪の鳳凰三山へ行こうと夜叉神峠から入山した。
荷物がやけに重く感じられ、薬師を過ぎた辺りで早めにテントを張ってしまった。
翌日観音、地蔵を歩き鳳凰小屋へ下りるルートをとった。
地蔵からダケカンバの林をシリセードで下っているとM君が止まらなくなってしまった。次第に加速して行くM君を見て、万一の事があったら自分も生きて帰る訳にはいかない、との思いが脳裏をよぎった。
必死に「うつ伏せになれーっ」と叫んだ。
それが聞こえたのかM君がうつ伏せになった。すると徐々にスピードが落ちた。助かったーと力が抜けた。
湿った雪で油断があった。手で漕がないと滑らないような斜面だったが一旦滑り始めると止まらなくなってしまった。
腐った雪だからといって甘く見てはいけない、雪の怖さを思い知らされた鳳凰の下りだった


富士山 その2

静岡県YH協会では毎年7月後半から8月初めに富士登山ホステリングを行なっていた。全国から参加者を募り一緒に富士登山をしようという行事だ。その富士登山を主管していたのが私の所属していたYH富士宮グループだ。
その年も、高山病で途中リタイヤした数人を除く全員が無事に登頂し、御殿場口五合目に下山した。迎えのバスが来るまで、いくつかの班に分かれミーティングをしていた。ふと後ろを振り向くと、GユースホステルのペアレントKさんが赤鬼のようなすごい形相で歩いていた。私は思わず「何だ!」と声を上げてしまった。隣の人を見て、もう一度Kさんを見ると何事もなかったかのように普通の顔だった。気のせいかなとも思ったが、ずっと気になっていた。
その晩、自宅で食事をしていた時、友人からの電話でKさんが亡くなったと知らされた。富士山の帰りに交通事故に遭ったとの事だった。
Kさんのあの時の形相は死と何か関係があったのだろうか、30年近く経った今でも不思議に思っている。


奥穂高岳

私が「雪の穂高」に憧れを抱くようになったのは「雪山に消えたあいつ」を覚えてからである。
11月下旬、友人4人で穂高行きを計画した。初日は涸沢小屋で泊まった。非常に混んでいて、夜中に一度トイレに起きたら、もう元の布団には戻れなかった。ストーブの横で一晩中語りあかした。
夜が明けると外は真っ白に新雪が積もっていた。憧れの雪の穂高であった。しかし、私達の装備は20mのザイル1本とピッケル一つだけだった。予定を変更して下ってしまうグループが多い中、我々はどうしようかと迷った。穂高岳山荘から下りて来る人の様子を見て、登れると判断した。柔らかく湿っている雪だったので滑る心配は少なかった。それでも慎重に一歩一歩ステップを切りながら登った。
無事に雪の穂高の頂きに立った。それだけで感激した。
涸沢から奥穂の往復に時間がかかり、横尾を過ぎると暗くなってしまった。星空の下を、雪の穂高の余韻に浸りながら徳沢まで歩いた。


北岳

 次男がまだ小学生だった頃、長男と次男を連れて北岳に登った。あまり人が多くなかったので盆過ぎだったと思う。初日、白根御池小屋に泊まり翌朝草すべりからのルートをとった。
肩の小屋で休憩し頂上で早めの昼食を取った。そこまでは順調だった。
帰りは八本歯コルを通って大樺沢を下るルート。やけに浮石が多い道だなと思いながらも踏み跡を辿って
った。小一時間も下っただろうか、ハイマツで道が消えてしまった。私が道だと思っていたのは獣道だったのかも知れない。元のルートへ戻るしかないと子供達に話したら急に疲れが出てしまった様子だった。後は下るだけと思っていた所が上を見上げるとかなりの高度差、次男は少し歩くと寝転んでしまい、また少し歩くと寝転んでしまった。励ましたり休んで菓子を食べたり、何とか元の登山道に戻ったのは2時間後、計3時間近く時間をロスしてしまった。元の道に戻ると何でこんな所で間違えたんだろうという感じだった。余程ぼんやりしていたのだろう。
大樺沢の雪渓を過ぎてからが結構長く、広河原に着く頃には暗くなってしまっていた。
御池小屋の朝食後から夜7時過ぎまで良く歩いた。子供達に無理をさせてしまった。
「何か美味しい物を食べて帰ろう」と車に乗ったが、子供達は車に揺られるとすぐ眠ってしまった。時間が遅く食堂はどこも閉店してしまっていたので飲み屋のような構えの店へ行った。
子供達を起こして遅い夕食を取った。無事に帰って来られて良かった。


富士山

5月半ば、裏側の富士山を滑って見ようとsuuさんと車でスバルラインを五合目まで走った。
駐車場に車を停めて板をザックに付けた。駐車場から40分ほどトラバース、大沢の雪の上を直登した。
しばらく歩くと頭上にオーバーハングした岩壁に接着するような形の岩が見えた。いつ落ちてもおかしくない状態だと感じた。
岩に染み込んだ水が凍ったり解けたりを繰り返すと必ず落ちるだろうと話した。私達は出来るだけ岩の遠くを歩き、沢の底を歩かないように気を付けた。
9合目くらいまで登った所で雪の状態を確かめ、昼食を取った。
半日かかって登った斜面をゆっくりゆっくり休みを取りながら滑ったが、あっと言う間に雪尻に着いてしまった。10分足らずのスキーだった。
「それにしても怖い岩だなー」と話しながら車へ戻った。
それから2ヶ月後、富士山で落石があり登山者を直撃、何人かの死傷者が出たとのニュースが流れた。私はそれが吉田大沢だと直感した。
その事故から大沢の登山道は廃止され尾根道が作られた。
私にとって最初で最後の吉田大沢でのスキーとなった。


) 富士山は滑落事故が多く毎年のように死傷者が出ている。その為最近はスキー・スノーボードは全面的に禁止されてしまった。


甲斐駒ヶ岳

もう30年くらい前になるだろうか。私が山へ登り始めた頃のことだ。
黒戸尾根を登り五合目の小屋へ泊まった。翌朝3時起きをしてヘッドランプの灯りで歩き始めた。七合目手前の鎖場まで来て空を見上げると、今まで見たことがない数の星が見えた。あまりにきれいなのでヘッドランプを消して星を眺めた。
流れ星も一つが消えない内に次が流れた。次々と数え切れないくらいの星が流れ、願い事は何でも叶うだろうという感じだった。
丁度ナントカ流星群と重なったのだろうか、全然知らないで出掛けてきたのだが。
その時以降何回か、流星群と聞くと甲斐駒へ出掛けた。

しかし、あの時のような星空は見る事が出来なかった。
 甲斐駒へ登ったことよりも、甲斐駒の鎖場で眺めた星空を今でも鮮明に思い出す。
あの時のような星空を、もう一度見てみたい。




農鳥からの北岳
白根三山

五月の連休だったと思う。syino,doba,tujiと私の4人で白根三山へ
出掛けた。広河原から御池小屋、草すべりを経て北岳、間ノ岳、
農鳥岳を縦走した。
農鳥岳を過ぎ大門沢への分岐での出来事だった。
リュックを下ろし休憩していた時だ。突風が吹きdobaさんの
リュックがふわっと浮き上がり、もんどりうって斜面を落ちて
行った。テント泊まりだったので少なくも20kgはあったと
思われるリュックが軽々と舞ってしまった

あっけにとられて、為す統べもなく雪の斜面を転がり落ちて
行くリュックを見送った。
下山ルートの方向だったので「見つかれば儲けもの」と探しながら
下りた。どのくらい歩いただろうか、這松にひっかかって
いるリュックを見つけた。財布が入れてあったので帰りの電車賃
が出てきたと喜んだ。
一眼レフのカメラも雪が緩衝したのか無事だった。
奈良田からの帰りのバスで「スリップした」と顔面をひどく擦り
むいていた登山者と一緒になった。
我々は落ちたのが荷物で良かった。


山歩きへ